逢瀬

Date: 2025-09-22

Author: 比奈沢 悠月

2024年5月19日(日)に開催された文学フリマ東京38で頒布した小説です。

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U-1

家を出て、原付で職場へ向かっていると、駅の方へ続く道から高校生の集団がまばらな列を形成しながら、目の前の横断歩道を渡っていった。襞状の布がヒラヒラと波打っている。揺れる布の内側から鮮やかな肌色のかいが交互に漕がれ、その躯体を前へ前へと進ませていた。小舟が次々と通り過ぎてゆく。瀝青まで伸びるしなやかな脚の、その先端へとゆっくりと見やると、最近のトレンドなのだろう、靴下の丈は皆くるぶしより短かった。また短いスカート――膝上20センチがこの集団の平均だろうか――も相まって、全身に対する肌色の面積は驚くべき割合だった。より肌を晒すのがトレンド? 女子高生たちは聡い。時代の最先端たる彼女達は、若さが最も価値を持つ年齢に既に気が付いていた。男の方は気付くのに時間がかかる。そして大抵の場合、気付くのが遅すぎるのだ。歩行者用の信号が点滅を始め、集団の後ろに位置していた生徒達が小走りして横断歩道を抜けていった。血色の良い、細くしなやかな脹脛ふくらはぎが陽に照らされ、視界の端へと消えていった。僕は左のウインカーを出し――目の前の光景に圧巻され信号で停まった段階でウインカーを出すのを忘れていた――十字路を左折した。

Y-1

ある春の暑い日だった。四月としては異常な、茹だる様な暑さだった。陽がじわじわと屋根を照り付け、その内側をも熱で満たさん限り、意地でも沈まないと言っているようだった。私はたまらず、縁側の窓を開ける。心地の良い風がそよと吹いた。鼻隠しの影が真下に落ち、縁側をちょうどすっぽりと覆っている。締め切った屋内より、外の日陰の方が風がある分マシだった。居間に設置してあるエアコンは息をしていない。顔を仰向けにして見やると、白くテカるプラスチックの表面に「2007年製」と記載されたシールが貼られていた。製造年から十七年経ち、私が物心つく前から快適な生活空間のために働いていたその家電は、今朝、その天寿を全うしたのだった。よりによって、こんな暑い日に壊れるなんて……。顔をうつむけ、ガラス戸の外にある縁側を見やると、長座布団が平干しされていた。戸を開け、うつ伏せに寝転がる。ほんのりとぬくい。今は影におさまっているが、昼前までは陽に照らされていたらしい。このまま眠ってしまいたい。まあ、いいか。特にやることもないし。意識は微睡まどろみの中へ沈んでいった。

「おはよう、なにしているの」 肩をゆすられて、心地のよい微睡の沼から引き摺り出されると、軒先にOが立っていた。Oは白いワンピースに白い日傘を差していた。 「なにって、昼寝だけど」 抑揚のない、不機嫌にも聞こえる寝起き特有の声で私は答えた。 「あはは、見ればわかるよ」 快活に笑うOの声は春に鳴く小鳥のさえずりに似ていた。揶揄からかわれている気がして、少し照れるのを隠すように、じゃあなんで聞くのと軽い悪態をついた。 「えー、なんでだろう。Y、わかる?」 質問に質問で返され、完全に遊ばれていることが理解できた。なんて返せばいいか分からず、顔を長座布団へ埋め、一拍置いて立ち上がってから言った。 「外、暑いでしょ。換気しておいたから、部屋の方が涼しい」

「麦茶おいし〜〜!」 花柄のグラスに注いだ麦茶を、Oは一口で飲み干した。水分を飲み込む喉の音がゴクゴクと鳴っていた。で、何しに来たの。そう聞こうと思ったが、なぜか口からはその言葉は出てこない。私は彼女が話し出すのを待った。Oは空になったグラスを見つめながら言った。 「や、特に用はないんだけど、暇だったからさ。あそぼーよ」 Oにしてはしおらしいなと思った。 「何して遊ぶ? 外は暑いから、室内でできることだと嬉しいんだけど」 そう言いながら、何ができるだろうかと思案する。すぐに思いつくのはスマブラか、ほとんど遊んだことのないボードゲームくらいだった。 「えー、なんだろう。んー、思いつかない」親指と人差し指を額につけ、熟慮するポーズをとるO。いつも思うのだが、彼女はリアクションがいちいち芝居がかっていて、見ていて飽きない。鼻音を断続的に数回発した後、彼女は申し訳なさそうに言った。 「春なんだしさ、とりあえず、外、散歩しない?」 「いや、私の話聞いてた?」 「ごーめーんー、でも花とかたくさん咲いてるし、それに、少しは外でないと、ビタミンDが欠乏して鬱病になっちゃうよー?」 どうやら最初からOは、私を外に連れ出したいようだった。渋々と承諾し、日焼け止め――SPF50+、PA++++と表記されたもの。肌が弱いのだ――を念入りに塗り、日傘を持って外に出た。

季節外れの夏日のなか、Oと連れ立って道路脇を歩く。歩道の道幅が狭いので、Oは少しだけ前を歩く。どこへ連れて行かれるんだろう。そう思いながら、Oの斜め後ろ姿を眺めつつ歩く。日傘の影に浮かぶ白い横顔から、長いまつ毛がちらちらと覗いていた。しばらくじっと見つめていると、唐突にこちらを振り向き、咄嗟に視線を逸らす。 「さっきずっとこっち見てたでしょー」 横目で彼女の顔を覗くと、目を細めながらニタニタと口角を吊り上げていた。 「んー」と肯定とも否定とも取れる曖昧な返事をしたあと、これからどこへ向かうのかと聞いて話題をずらす。 「アハ、着いてからのお楽しみってことでー」 そう言って彼女は前を向いた。 両脇には家々が段々と連なっていて、道路は谷に沿って続いている。ここ一帯は多摩丘陵の一部で、起伏が多く、地名にも丘や山などが付いていることが多い。カーブの先の交差点で交番とローソンが向かい合っているのが見えたとき、Oが道路を横切った。私もそれに続いた。私たちは坂を登り始めた。確かこの先に、お寺があった気がする。以前、家族で初詣に訪れたことがあった。幼少期、確か、小学生の低学年の頃の記憶だった。その頃はまだ母が生きていて、父も連れ立って三人で訪れたのだ。坂の傾斜が緩くなったあたりで、Oが歩を緩めた。左手に石段が続き、その奥に佇む山門が両脇に生えた木の枝葉から覗いていた。 「こっちだよ」 Oが石段を登った。私もあとに続いた。

山門を抜け、飛び石が伸びた先に本堂があった。左に石道が続き、それに沿って進むと、石垣と石段に囲われた傾斜に当たった。石垣は傾斜が進むにつれ段々と設られていて、二段目の石垣の奥には大きな鐘がぶら下がった鐘楼が見えた。頂上はここからはまだ見えなかった。石段と石道を順々に登る。道の両脇に沢山の墓が並んでいる。墓地か、と思った。登るにつれ傾斜が緩くなり、視界が開け、頂上が見えたと同時に、その手前の建物に目を引かれた。五重塔が屹立きつりつしている。進むと塔の周りは広場になっているのが見えた。私たちはそこへ、虫が光に引き寄せられるように向かった。 広場に着き、改めて五重塔を見上げた。三〇メートルはあるだろうか。非常に立派だ。塔の周りは木の柵によって囲まれており、それ以上近づくことはできないが、全体を視界に収めるには見上げる必要があった。枝垂れ桜が柵の隣で咲き誇り、塔の屹立を称えているようだった。 「ほら、こっちみて」 塔に見惚れている私をOの声が引き剥がした。振り向くと、人々の営みが果てしなく広がっていた。私たちはひらけた丘の頂付近にいて、そこからは多摩丘陵に隙間なく敷き詰められた家々、その向こうに霞む都心のビルまでもが一望できた。まるで海のようだ。その海原を背景として、群居する家名が刻まれた墓石の数々、御堂、松、山桜、鐘楼が視界の前景に映る。生と死がそこにあった。

しばらく景色に魅入っていて、ふと辺りを見渡すと、Oの姿がなかった。不安に駆られ、Oの名前を呼ぶと、五重塔の奥にある塀の向こうからOの返事が聞こえた。向こう側では、塀に沿うように何本かの桜が咲き枝垂れていた。よかった、いなくなったわけじゃなかった。声のする方へ行くために、石道に戻って坂を少し登る。ほぼ丘の頂にあって石道は途切れ、左手の塀に沿って石道が続いていた。塀に寄りかかるようにして、Oは桜の花を見上げていた。Oの背後、正確には瓦付きの塀の奥には五重塔がそびえ立っている。Oはこちらに視線を一瞥して、また桜の花を見つめた。この時、私は桜の花に少し嫉妬した。そしてすぐ、花に嫉妬するなんて馬鹿げてると思い直した。Oは依然として桜の花をぼんやりと眺めていた。 「ねえ、ここで花見やろうよ」 花から少しでも意識を逸らせたいと思って出てきた言葉がそれだった。「ローソンで、来る途中にあった、お酒とおつまみ買って」私はしどろもどろに続けた。 「いいね、ナイスアイデア」Oは親指を立てて言った。

山――といっていいのか、丘というべきなのか、しかし、体感的には山だった――を一度下って、麓の三叉路にあるローソンで飲み物とつまみを買った。さわやか梅酒のカップ酒、チー鱈、わさび味の柿ピー、さきいかを私は選んだ。Oはワインが好きで、チルドコーナーに冷やされていたハーフボトルの白ワインをカゴに入れていた。私がレジの列に並んでいると、カニかまサラダとしみチョココーンをカゴに追加してきた。レジ前でOへ代わり、会計をしてもらう。 「えー、私そんなに若く見えますー? うれしー」と言いながら、Oが免許証を提示し、年齢確認ボタンを押していた。 外に出ると、Oは半分持ってと私に言った。 「袋、ひとつしかないように見えるけど」 「取手のとこをそれぞれで持てばいいじゃん」 「いや、恥ずかしいし」 「ふふ、照れるなよ」 結局私はOの申し出を受け入れた。ひとりで持つよりも持ちづらかった。山へ向かって、再び下った道を登っている途中、失念していたことを思い出す。 「あ、お金――」言い終わる前に「いや、ここは奢られておきなさい」とOが言葉を被せた。 「ごちです」 私は潔くそう言った。

寺の境内を抜け、墓地も五重塔も抜けて、丘の頂の手前にある塀と桜並木がある場所へ戻ってきた。塀に沿って舗装された石道にそのままあぐらをかいて座った。Oはポリ袋を一枚挟んで正座を横に崩した態勢で座っている。私は地べたでいいと固辞した。Oは「最初から二枚もらっておけば良かったね」と苦笑いしていた。 それぞれに蓋を開け、乾杯をする。コツンとガラスの響く音が鳴った。微風が肌を撫でた。ひらひらと一枚の花弁が目の前を舞い降り、視界の焦点がそれに合わさってぼやけた。

U-2

息が苦しい。呼吸ができない。目の前はぼんやりとした闇に覆われ、一点の光もなかった。依然として息を吸い込むことができず、頭のてっぺんが萎縮するような感覚が強さを増してきて、もう限界だと意識が途切れると同時に、目を覚ました。咄嗟に息を吸い込む。生暖かく湿った空気が喉を通った。顔には柔らかい毛束の感触があり、毛布を頭に被っていることがわかった。布団を剥ぎ、新鮮な空気を肺に送り込む。自身から吐き出され酸素が薄まった生々しい空気に慣れた喉に、室内の少しひんやりした空気は非常に美味に感じた。はっとして、スマートフォンで時刻を確認する。乾燥して霞んだ視界に、午前六時を少し過ぎた時刻が映った。出社にはまだ時間がある。今朝の目覚めのせいで、朝から心臓が高鳴っていた。もう少し休みたい。昨晩、寝ついたのは午前二時だった。睡眠時間としても全く足りない。睡眠導入剤をもらわないといけないな。僕は落ちてゆく意識の合間に、そう考えた。デエビゴの残薬が残り少なくなっていて、昨日は渋って飲まなかった。これでは意味がない。心療内科へ行く必要がある。

平日が終わり、土曜日がやってきた。労働の疲れがどっと襲いかかってくるのも、土曜日だった。そんな土曜日は家から一歩も出ずにだらだらとアニメでも見て過ごしていたいのだが、今日は心療内科へ行く必要があった。睡眠薬の処方をしてもらうのだ。生活基盤を維持するには労働を行う必要があり、労働を維持するには安定した睡眠が必要で、それには睡眠導入剤が必須だった。七年前から不眠症をわずらっている僕は、さまざまな睡眠薬を試し、最終的に行き着いたのがデエビゴだった。Day・Vigor・ready to goが名前の由来らしい。意訳すると「日中への活力は準備万端!」となるだろうか。なんとも直接的な名付けだが、睡眠薬の目的を十分に表現していて、好感を持った。使ってみると、服用してきっかり三十分後には強烈な眠気に襲われた。今まで体験したことのない、抗いがたい眠気だった。睡眠薬の王様といわれるロヒプノールでさえも、ここまでではない。そして、その効果のキレの強さもさることながら、ロヒプノールを含む既存の睡眠薬との決定的違いはその作用秩序にある。既存の睡眠薬の多くはGABA受容体に作用し、神経の興奮を抑えることで入眠へ導く。GABA受容体作用系の薬剤は、睡眠薬の他にも抗不安薬や肩こりなど、神経の興奮を抑えるために幅広く使われていて、頓服的に使うことには問題はないのだが、耐性の問題があり、毎晩と使っていると段々と効果が薄れてくる。GABA受容体に作用するハルシオンやマイスリーを使っていたころの僕は、徐々に効果が薄れ、量を増やす必要に迫られることがしばしばあった。対し、デエビゴやベルソムラを含む、新しいクラスであるオレキシン受容体拮抗薬は、オレキシンという脳の覚醒を司る物質の受容を阻害することで自然な睡眠へ導き、GABA作動系と比較して耐性が付きにくい事が証明されていた。驚くべきことに、この物質を発見したのは日本人で、一九九八年、テキサス大学の柳沢研究室において柳沢正史やなぎさわまさし櫻井武さくらいたけしがオレキシンを発見し、その物質が睡眠と覚醒を制御をしていることを発見した。これはナルコレプシーの病理作用の解明に繋がった。アドレナリン、ノルアドレナリン、ドーパミンの受容の過多によって覚醒度合いが決まるが、この三種の物質の制御、いわば監督の役割を果たしているのがオレキシンなのだ。オレキシンの受容が一定より多いと覚醒し、一定より少ないと睡眠状態に陥る。いつかに見たYouTubeの動画で、柳沢博士は、日本庭園によくある鹿威ししおどしの比喩を用いて睡眠と覚醒の機序を説明していた。 「鹿威しの口が天を仰ぎ、水を受け止め貯めている状態が覚醒だとすると、水の貯蔵が限界となり竹筒の口が地へ水を振り落としている状態が睡眠なんですよ。あのカコーンって音が鳴って、竹筒は眠ってしまう。そして起きて、また水を貯め始めるんです。我々が発見したオレキシンはその竹筒の向きを制御しているんです。水にあたるのが何かはまだ分かっていないけれど、オレキシンの受容には閾値があり、オレキシンの受容がその閾値より少ないと、竹筒は下を向くんです」

鈍行で一駅下り、急行に乗り換えて一駅のターミナル駅から、徒歩五分ほどの場所に心療内科はあった。受付を済ませると番号が書かれた感熱紙を渡され、待合室で名前を呼ばれるのを待った。待っている間、ミシェル・ウエルベックの小説を続きから読んだ。ここへ来る途中の電車でも読み、ページに栞紐しおりひもが挟んである。『滅ぼす』と銘打たれたその小説は、ウエルベックの小説がいつもそうであるように、冒頭からすでに絶望と深い悲しみに満ちていた。それは主人公の妻との関係を描写した以下の一節に象徴されている。

危機の始まりから、彼らは寝室を別々にした。独りで寝る習慣をなくしたあとで、また独り寝に戻るのは難しい。冷え冷えとしていて、恐怖も覚える。だが彼らはその苦しい段階を過ぎて久しかった。絶望が当然のことと思えるような段階に達していたのである。

絶望を当然のことと思えるような段階という表現が特に好きだった。僕は結婚しておらず、恋人もいないが、その表現に深く共感した。変化がなく、代わり映えしない毎日。大半の時間を生活のための労働に捧げ、見返りとしての給与は毎月、支出を下回る。代わり映えしないというのは正確ではなかった。この生活を続けていけば、必ずいつかは崩壊してしまうだろう。借金は減るどころか、毎月漸増ぜんぞうしていっている。代わり映えのしない人生への刺激として借金を続けているのかもしれない、と僕は自分を分析した。いずれにせよ、この世への絶望には慣れ始めていた。自殺願望はなかった。自殺は、往々にしてこの世界――もしくは自分――への絶望に直面し、それに耐えきれなくなって行うのだと、僕は考えていた。それに一旦でも慣れてしまうと、絶望と戯れることも可能となる。その段階を経ると自殺へ至ることは稀だろう。あとは絶望と対峙しながらの小さな改善をこつこつと実践していくことになる。それは資本主義の枠内で漸進的に制度改革を行う社会改良主義に似ていた。「社会改良主義は根本的な解決にはならない」と内なる声が叫んだ。そう言いたくなる気持ちもわかる。奨学金を除いても、一六〇万円の借金を抱えているのだ。友人や親に対する借金ではない。利子の付かない借金は借金とは呼ばない。僕のそれはカードローンやクレジットカードのリボ払いによるものだった。 「四十九番の方、診察室にお入りください」 アナウンスが鳴り、本を閉じた。 診察室の扉を開けて入ると、いかめしい皺に知性が感じられる柔らかい笑みを湛えた心療内科医に「どうぞ、お座りください」と促され、デスクの横に設えられた丸椅子に座った。 「今日までどうでしたか」 医者はいつも通りの決まり文句の台詞を言った。 「デエビゴに変えてから調子がいいです」 それからいくつかの生活上の困り事や心配事を尋ねられ、大きな変化はないことを医師が察すると診察を終えた。いつも通り、五分もかからず診察室を出た。一種の儀式のような時間だった。

アパートに帰宅し、すぐに服を脱いでシャワーを浴びた。排水がうまくいっていないのか、風呂場の床に水が溜まり、浴槽の側の排水溝からもお湯――シャンプーやボディーソープなどのシリコンと皮脂の汚れ、水垢が渾然一体となってぬかるんでいる――が逆流していた。家の中にはなるべく汚れを持ち込みたくなかった。穢れと表現したほうがいいかもしれない。穢れを身に纏ったまま居室でくつろぐことはできない。例えそんなに汚れていなくても、心身に憑いた穢れが、居室に浸出してゆくのが嫌だった。いささか神経質すぎるかもしれないが、僕にとって居室は、一種の聖域なのだ。風呂場は、外から持ち寄った汚れを落とすみそぎの場と化していた。その穢れを闇に流すはずの排水溝から、穢れが噴出していた。看過できる事態ではなかった。排水溝のフィルターに絡まった髪の毛は一日おきに取り除いているから、それによる詰まりではないはずだった。前のアパート――学生時代に五年ほど住んでいた――も住み始めて二年ほど経つとユニットバスから流れたお湯が反対側の排水口から逆流するようになったことを、僕は思い出した。あの時は自分で水道業者を呼んで、排水溝の奥に絡まった毛を取ってもらったのだ。あとから、それを管理会社に報告すると「お金もったいない! 契約している水道業者があるから、うちに言ってくれればタダだったのに!」と電話口で告げられた。こういったことはまず管理会社に報告すべきことであるとその時に学んだ。学生時代のアパートの管理人は驚くべきほど親切で、次の月の家賃から自費で水道業者へ払った分の金額を割り引いてくれた。管理会社の社長でもある彼は、恰幅のいい温厚な初老の男性で、ほぼ一人で切り盛りしているようだった。コロナ禍の時、陽性となって自宅療養となり外に出られなくなっていた際は、段ボール一箱に食料を詰めて送ってくれたこともあった。世界は案外、苦しみだけに満たされている訳ではないと知ったのはこの時だった。ともかく、管理会社に報告せねばならない。その前に排水溝の掃除はしておくべきだろうか。フィルターの髪の毛を取り除く以外、特に掃除はしていなかった。排水溝の奥へ手を突っ込む勇気はなかった。まあ、パイプユニッシュのようなものを注入すればよいだろう、それで改善しなければ管理会社へ報告しよう。

Y-2

ほろ酔いとなった私とOはゴミをポリ袋に詰めた。日が暮れかけていて、寺院の石段を下る際、目の前に段々と広がる家々が茜色に淡く染まっていた。 「街が燃えてるみたい……」 Oがそう呟いた。私は何か言葉を探したが、何も見つからなかった。さらに丘を下り、私たちはそれぞれの家に帰った。

玄関から居間に入ると、昼間の熱気が籠もっていて、じんわりと汗をかいた。照明のスイッチを入れて、壁の柱に設置している温度計を見やると、二十九度と表示されている。暑い。すぐにガラス戸を開くと、網戸となった窓から心地よい風が吹いてきて、かいた汗を冷やした。昼間はあんなに暑かったのに、夜になると少しひんやりとした空気に外は満たされていた。この辺りが丘陵の谷間に位置しているからなのだろう。私は冷えた空気が山を這って降りてくる様を想像した。斜めった地表をすーっと滑り落ちてゆく涼風。ときたま、突風が木々の間をくねりながら疾走し、地面に横たわる葉や花弁を巻き起こす。葉は地表を蠢く蟲に半ば分解され、輪郭が欠けていたり、穴が開いていたりして、身体の表面を少しだけ持ち上げるにとどまる。それに対し花弁は――正確には桜の花びらは――落ちたばかりで美しい原型を保っており、身軽なその体を器用に曲げながら夜風に身を任せ、ひらりひらりと舞っている。先頭の風が私の目前にまで迫り、その輪郭のない実体を私にぶつけた。風の体内に私が流れる。風はたちまちに分散し、もはやその実体は部屋の空気と混ざり合って感じ取ることはできなくなってしまった。居間に設置してある温度計を見ると、二十四度と表示されていた。うん、適温になった。私はそう判断し、ガラス戸を閉めた。ふと、透明なガラスと網戸の向こうに、人影が見えた。ジャージを着た男が、向かいにあるアパートの階段をのそのそと下っていた。両手には大きな半透明の袋をぶら下げていて、ゴミ捨て場へ置きにいくようであった。そういえば、明日の朝は燃えるゴミだ、と私は思った。私は障子を閉め、夕食の準備へ取り掛かった。

炒め物以外の夕食を作り終わり、シャワーを浴びて居間に戻ると、父が居間でテレビを見ていた。 「お父さん、帰ってたんだ」 私はそう声をかけた。 「ああ、うん」父は少し疲労感を滲ませた声で答え、続けた。「次、風呂、借りていいか」 「うん、あ、ごめん。お風呂は沸かしてないや。どうする?」 「いや、俺もシャワーだけでいいよ」 「そっか、わかった。あー、ていうか、お父さん、エアコン良いのあった?」 父は今朝うんともすんとも言わなくなったエアコンの代わりとなるものを探しに出かけていたのだった。 「うん、夕飯を食べながらでも話すよ。Yはもうご飯は食べたのか?」 「ううん、まだ。ごはん、温めておくね」 「ん、頼む」

父を待つ間、下拵したごしらえをした豚肉をフライパンで焼いていた。ご飯はすでに炊き終わっており、汁物と副菜はシャワーを浴びる前に作り終えていたので、あとは主菜の生姜焼きを作るだけだった。盛り付けが終わり、父の盆を先に居間の座卓へ持っていき、自分の盆を移動している最中に、風呂場につながる廊下から父が寝巻き姿で戻ってきた。短く切り揃えられた頭髪はまだ湿り気を帯び、自身の重みに必死に耐えている。照明の光が毛束ごとに反射して、いくつもの白い筋を浮かべていた。

食事を父と共にしながら、新しいエアコンの話をした。最新のモデルのようで、部屋の温度を感知してピンポイントで送風する機能があるようだ。 「そんな機能いらないってー」 私が冗談っぽく言うと、父はうーんと唸っていた。そしてエアコンを設置する業者との立ち会いについての段取りを話しながら、夕食の時間は過ぎた。

寝る前、ビー、ビーと遠くで音が定期的に鳴るのが聞こえた。気になって外を見てみると、駐車場を挟んで向かいにあるアパートの、二階にある外廊下で、男がうろうろしているのが見えた。扉の前で立ち止まり、手元を何やらドアノブ付近で動かしている。私はそれをぼーっとながめた。しばらくして、その男が夕飯を作る前にガラス戸から見た、ゴミ捨てにアパートの階段を降りていった男であると気付いた。そのうち、男は階段を降りてどこかへ歩いて行ってしまった。どこかぎこちなく、打ちのめされた様子だった。私はカーテンを閉め、明日のアラームがセットされていることを確認し、布団をかぶって寝た。

小さな電子音が短い感覚で鳴り響く。この音を聞くと、朝だ、と体が勝手に反応し、すぐにはっきりと目を覚ます。昔からの特技というか、体質だった。左手でカーテンを開ける。陽の光が眩しい。レース越しに力強い朝日が私の体を照らしていた。なんとなくだが、朝の光は溌剌はつらつとしていて、昼間の日差しとは全く異なる感覚を受ける。まあ、実際に異なるのだろう、太陽の入射角から考えても、拡散によって異なる光が届くのだから。物理で習ったのだったか、ネットで調べた知識だったか、いや、それはどうでもいいことだと思った。今日は月曜日、高校の授業があった。始業式は先週にあり、私は高校三年生になっていた。 家を出る際に居間を通ると、父がコーヒーを飲みながら本を読んでいた。エアコンが午前中に設置される予定で、その立ち合いを父が行うことになっていた。お父さんは会社あるでしょ、私が午前中の授業休むよ。昨晩の食卓で私はそう言ったのだが、父は頑なに固辞した。何のために仕事をしていると思っているんだ、お前が授業を休んで、俺が会社に行ったら本末転倒だろう。父は私のことを深く愛している。そう思った。 ゴミ袋を持って家を出た。今朝は燃えるごみの日だった。ゴミステーションにはすでにうずたかく乳白色の山が積もっていた。

U-3

日曜日の晩、夕寝から覚めた。うとうとした頭で、明日は燃えるゴミの日だと思い出した。燃えるゴミを出せる日は週に二回あるが、前回は出すのを忘れていたのだった。今晩のうちに出しておかなければ忘れてしまう。そう思って僕は、いまだに覚め切らない頭でゴミ袋を二つ抱え、玄関のドアを開けた。階段を降り、ゴミステーションに張られた緑色の網を持ち上げ、ゴミ袋をそっと置いた。階段を登り、玄関のドアノブの上に設置されたパネルの左下に浮かぶボタンを親指で押す。黒いパネルにテンキー配列の数値がオレンジ色に浮かび上がり、無意識に刻み込まれた数列を入力する。ビービービー、という音が鳴る。番号が間違っている。続けて三回、暗証番号を入力する。どれも失敗し、危機感を煽るような警告音が控えめに鳴り響く。パネルをタッチして番号を入力しようとすると、警告音がまた鳴った。もう打てないのだろうか、いや、そんなはずはない。しばらく待ち、再度パネルに触れると、警告音は鳴らず、番号を入力できるようになっていた。なるほど、連続失敗後はしばらく入力できなくなるようだった。いや、それはいい。とにかく、僕は自分の部屋へ入る為の暗証番号を忘れてしまったのだ。やれやれ、度忘れだ。たまにこういうことがある。疲れているのだろうか、それとも若年性アルツハイマー? いつもはスマホを持ち歩いているから何とかなった。暗証番号式の錠前は僕が設置したのではなく、もともとの設備で、だから鍵はそもそも渡されていない。そして僕はいま、財布もスマートフォンも身に付けておらず、寝巻きのジャージ姿だ。たかがゴミ捨てに財布もスマートフォンも持ち歩く? いやいや。暗証番号のメモはスマートフォンの中にしかなかった。要するに僕は、自分の家から締め出されてしまったのだ。

近くの交番へ向かった。「パトロール中」というタペストリーがガラスドアの内側に掛けられ、蛍光灯に照らされていた。向かいにあるローソンは零時を過ぎても煌々と光を放っている。公衆電話が店の前に設置されていたが、一銭も持ち歩いていないので使えない。交番のガラス戸を開けて中に入ると、用がある方はこちらの番号にかけるようにと書かれたプラスチックの卓上案内板がカウンターに置かれていた。奥の机には家庭用電話機が置かれている。かけるしかない。受話器を持ち上げ、書かれている番号へ電話をかけた。二度ほどのコール音の後すぐ繋がった。若い男の声だった。家の玄関ドアにかかっている暗証番号を度忘れしてしまったこと、従兄弟にはアパートへ泊まりに来た際にLINEで暗証番号を伝えていて、彼に電話をかけたいので貸してもらえないかという旨を伝えた。 「係員を向かわせるので少しお待ちください」 カウンターとガラス戸に挟まれて置かれているパイプ椅子に腰を下ろす。正面の壁には、この交番の管轄区域を示す地図が額装されて壁に掛けられていた。紙でできているだろう地図はひどく黄味がかり、その土地の歴史を物語っているように思えた。立ち上がり、近づいてよく眺める。寺社仏閣を示す卍がやけに大きく描かれ、町丁名が全体にちらほらと等間隔で配置されていた。

バイクのエンジン音が近づいて、駐車スペースの辺りで消えた。ガラス戸の奥から白いヘルメットを被ったままの青い制服が見えた。爽やかな青年然とした警官だった。彼に詳しい事情を説明すると、交番内の電話を使う許可をくれた。 「携帯にかける場合はこっちを使ってください」そう言って彼は携帯電話を手渡した。 ほとんどの連絡がLINEで完結しているのは従兄弟も例外ではなく、僕は彼の電話番号を知らなかった。それを知るためにはまず祖母か母に電話をかける必要があった。僕が覚えている電話番号も祖母か母だけだった。結局、一向に繋がる気配はなかった。これで、僕が打てる手は全て尽きた。 「詰みました……」 僕は打ちのめされたように言った。実際、打ちひしがれていた。 「頼れる友人とか、家族とか、近くにいませんか」 僕は首を傾げながら「いないですね、友人が二駅隣に住んでいますが、家がどこにあるかまではわからないです」と言った。 「お家ってこの近くですか」 「ええ、歩いて五分くらいです」 「マンション――」 「いえ、アパートです」 「へぇ、珍しいですね、エントランスがあるんですか」 「いえ、エントランスはなくて、普通のアパートです」 「暗証番号っていうのは……」 「ああ、玄関のドアを開けるのが鍵ではなくて暗証番号なんですよ」 「へぇ、珍しいですね、引っ越してすぐとかですか」 「い、いえ、二年くらい住んでます、たまにこういうことあるんですよ、いままではスマホもってたんで忘れてもメモったの見れたんですが、今日は何も持ってなくて」 彼は一瞬、憐れむような視線を僕に投げかけた気がした。 「会社はどこにお勤めで?」 「一つ隣の新百合ヶ丘駅です」 「近いですね。この時間は――」と彼は壁に掛けられた時計を見た。長針が1の手前を差していた。 「流石に誰もいませんね。そもそも日曜ですし」 「そうですよね……」 どうやら彼の手は尽きたようだった。僕の方はというと、手札はとっく無くなって久しかった。 「頼れる友人とか、本当に誰もいないんですか」 彼は強烈な一撃を僕に与えた。僕は身一つで深夜に放り出されるとどこにも寄るべはないのだ、ということを突きつけられた。じんわりと感じていた疎外感が実体となって僕を襲い、視界がぼやけた。僕は中空に視線を彷徨わせた。唇が震えていた。 「いない、ですね……」 僕の声は掠れ、いかにも消え入りそうだった。青年警官の綺麗に整えられた眉が八の字を描いた。しばらくして彼は、自分にできることはもうないということを非常に丁寧に伝えた。僕は礼を言って交番を出た。

アパートに戻り、自分が出したゴミ袋から針金を取り出した。先週にコーヒーをこぼして汚してしまった、折りたたみの洗濯カゴの支柱に使われていたものだった。マイホームヒーローというクライムサスペンスものの漫画でみたサムターン回しの要領で強引に鍵を開けられないかと考えた末の行動だった。針金の先を輪にして郵便受けに通し、錠前のサムターンの部位に引っかけて解錠するのだ。だが結局、無理だった。何度やってもドアノブに輪が引っかかってしまう。マイホームヒーローの主人公も結局、サムターン回しには失敗していた。僕が成功するわけがなかった。僕は項垂うなだれ、手すりに寄りかかった。今は何時だろうか。交番を出てから既に、体感で一時間は経っていた。諦めてはいけない。今までは無意識で暗証番号を入力していたのだ。何も考えず、運指の感覚で打てばいい。僕は立ち上がり、ドアノブ上の真っ黒なパネルに指を沿わせた。ピピッと軽快な電子音が鳴り、ガチャっとシリンダーが回転する音が聞こえた。 ――やった! 僕は思わずガッツポーズを決めた。開いたのだ。ドアノブを捻り手前に引くと、当然のようにドアは開いた。部屋はゴミ捨てに出た時のまま、明かりが付いている。僕はもう疲れ果て、シャワーを浴びずに、そのまま薄い折りたたみマットレスに横になった。 心身の疲労感とは裏腹に、意識はなかなか途切れなかった。一秒でもはやく一日を終わらせたい気分だった。禊をしなければいけないが、起き上がって風呂場へ向かう気力が湧いてこなかった。排水溝の詰まりはいまだに直っていないことも、気分を憂鬱にさせた。数日前にパイプユニッシュを使用したが、効果がなかった。管理会社へ電話をするのは億劫だった。いや、そもそも、電話番号を知らなかった。ああ、今すぐ夢に落ちたい。一刻も早く。僕はサイドテーブルの引き出しからデエビゴのPTPシートを取り出し、一錠押し出すと、口に含む。腹に力を入れて立ち上がり、シンクの蛇口から水を出す。それを両手で受け止め、口いっぱいに含む。僕は一気に喉を鳴らした。水が気管に入り、少し咽せたが、薬は食道を通り、しっかりと胃に到達したようだった。 きっかり三十分後、僕の意識は途切れた。

Y-3

終業のチャイムが鳴り、七限目の授業が終わった。ホームルームのあと、クラスメイトたちは部活やバイト、予備校、友人とのショッピング、あるいは帰宅へと各々の行き先へ向かっていく。夕飯は私が作っている――これは私の好きでやっている。料理は好きだった――ので、私はあまり付き合いが良くはなかったが、友人に恵まれ、週に一度は同級生の友人から放課後の遊びを誘われていた。その週に一度が今日だった。町田のGUへ服を見に行こうという友人の誘いを私は断った。 「実は、お父さんから家の鍵を忘れたって連絡が来てて」 友人たちは疑う素振そぶりさえ見せなかった。 「Yのお父さん、大丈夫そ?」と、友人の一人が言った。 「うん、まだ会社みたいだから、私が先に帰って家の鍵を開けておこうと思って」 「そうした方がよさそ。また誘うね」 「うん、ありがと」

帰宅して一時間ほど経って、「ただいま」という父の声が玄関から響いた。 「おかえり、お父さん」 「ああ、すまないな」 「ううん、大丈夫。もうすぐご飯できるから、先お風呂入ってきちゃって」 「ああ」

U-4

昔から、同じ夢を見ている。少女と出会う夢だ。少女と僕は運命で結ばれていて、互いに引き寄せられるが、すんでのところで触れ合うことができない。僕が七歳の頃に見た夢の話をしよう。走行中の列車で、隣の車両に少女はいた。連結部の窓越しに、僕はその少女を見た瞬間、運命を感じる。じっと見惚れていると、少女が振り向いて、僕を見つめる。そうして二人は引き寄せられるように車両同士の連結部へ歩き出す。いざ、仕切り扉を開けようと取手を引くと、重く開かない。それは少女の方も同様で、僕らは連結部の仕切り扉の窓越しに見つめ合う。その瞳は寂寥感を誘うほど黒く澄んでいる。少女はふいに、ガラス窓へくちづけをした。僕へ愛情を伝えようとしていたのだろうか。僕は胸が熱くなって、ついには泣き出してしまう。 僕は大人になっていた。唐突に、線の細い、打ちのめされた様子の女が僕の前に現れた。話を聞いていると、僕が七歳の頃に夢に見た女の子であることがわかった。病弱で、薄幸そうな顔をした彼女は、幼い頃の面影はほとんど残っていなかったが、時折見せる吸い込まれるような瞳は健在だった。話していると、この女を所有したいという感情がむくむくと沸き起こるのを感じ、僕は半ば無意識的に「結婚しよう」と言った。 「うん!」 彼女はとても嬉しそうに言った。ある種類の人間が病弱で薄幸な少女に惹かれるのは、彼がその少女を所有し、あらゆる手を尽くして幸せにしてやることで、その少女にとっての絶対的な依存、愛を獲得すること、つまりはその少女にとっての神になりたいのだ。愛とは支配と服従の関係であるということは、世界規模の一神教である二つの宗教が既に説明していた。ああ、僕はついに結婚するのか。そう感慨に耽っていたところで、僕は目を覚ました。夢だったのか、と僕は落胆する。どこまでが夢だったのだろうか。七歳の頃に見た夢、その夢を見たのは事実だ。そして同じような夢を僕は大人になっても見続けているのだ。 スマートフォンの日付を確認すると、月曜日で、始業まで時間もなかった。仕事へ行かなくてならなない。そそくさと準備を済ませ、玄関の扉を開けた。

仕事が終わり、タイムカードを切って外に出ると、雨が降っていた。土砂降りだった。今朝、起きたのは始業25分前で、天気予報を確認している暇はなく、手早く準備を済ませて原付を走らせたので、カッパは持ってきていなかった。駐輪場まで歩くと、雨晒あまざらしになった原付が悠然と佇んでいた。シートには雨粒が跳ね、新品のような艶を取り戻していた。仕方ない、雨に濡れて帰るしかないようだ。 いつもとは違う道を選んだ。特に理由はなかった。おそらくそれが間違いだったのだ。左に曲がる小径を失念して、急ブレーキをかけながら左へハンドルを切った途端、車体が宙を滑った。投げ出され、水浸しの瀝青れきせいに肩と膝とてのひらが激しく擦り付けられる。痛みにのたうち回っていると、強烈な光とクラクション音が眼前へと迫った。強烈な振動が僕を打ち上げた。不思議と痛みはなく、代わりに、カコーンと、鹿威しの音が僕の身体に響いた。竹筒の尻が石を打つその音は、軽やかな終わりを告げるように響いた。その音は非常にゆっくりと、スローモーションのように響いていた。音が小さくなっていくにつれて、僕の意識も遠のいていく。まるで眠りに落ちるように徐々に、徐々に。竹筒の吐口が上に向いて静止したとき、僕の意識はそこで途切れた。辺りには、ただ雨粒の降りしきる音だけが残った。

Y-*

ある晩、ゴミ捨て場にペットボトルを捨てにいった。普段は朝に出すのだが、明日の朝には家には誰もいない。父は出張で週末まで帰らず、私はこれから、Oのアパートへ泊まりに行くのだ。ゴミ捨て場の前まで歩いていると、前方のアパートメントの階段から、同じくペットボトルの詰まった半透明の袋を携えて、ジャージを着た男が小走りで降りてきた。烏よけのネットを上げて、ゴミ袋を入れる。私は男が袋を入れるのを、ネットを上げたまま待った。 「こんばんは」 なんとなく声を掛けた。男は目を逸らしながら私の方を向き、少し間を置いた後、「こんばんは……」と返し、ネットの内側にペットボトルが詰まった三十リットルほどの袋を入れた。私がネットを下げ、立ち去ろうとすると、男がこう言った。 「夜は涼しいですね」 男は緊張した様子だった。私は挨拶以上の会話を想定していなかったので、少し驚いたが、そのことを悟らせないようにすぐ表情を作った。 「そうですね」と言って、続けた。「ここのところ、昼間は暑過ぎるってくらい。まだ四月なのに、夏って感じで。夜はちょうどいいんですけどね」 「確かに、もう春とか秋とかなくて、冬と夏ですよね」 「そう! 四季じゃなくて二季」 「あは、日本には四季があるって、もういえなくなりますよね」 「ですねー! あ、もうそろそろ私行きますね」 「あ、そうですね。お気をつけて」 では、と会釈し、Oのアパートに続く道へと向かって歩いた。少し振り返ると、男がアパートの階段へのそのそと歩いていった。変な歩き方だと思った。が、男のことはそれきりで、私はOの家でなんの映画を見ようかという思案に夢中になった。OはU-NEXTを契約している。最近古いフランス映画が多く追加されたことをSNSで見かけ、気になっていたのだ。Oは映画に詳しいから、聞いてみよう。 自然と歩幅が広がる。街灯が点々と夜道をずっと先まで照らしていた。ふと顔を上げると、人工の光が桜の新緑をぼんやりと闇に浮かび上がらせている。不意に足を取られ、つまづきそうになった。俯いて地面を見やると、アスファルトの窪みに、踏み締められ、黒ずんだ桜の花びらが滞留していた。

(了)

文学フリマ東京38 at 2024/5/19(日)