古びた家の二階、廊下の奥にある部屋で私はSと暮らしていた。その家は祖母の家に似ていて、しかし微妙なところが違っていた。Sは姉のような存在でありながら、実際には祖母の友人か親戚の娘で、居候のようにこの家に滞在していた。彼女の姿は高校時代に好意を寄せていた人物に酷似していて、しかし明確に異なる人物であった。私はそのことに戸惑いながらも惹かれていた。 ある朝、目を覚ますと、彼女は既に起きていて、窓から差し込む朝日を背に立っていた。彼女の首筋の沿った髪が青白い光の筋となって揺れた。 「あら、おはよう」 彼女の横顔が白く照らされた部分と暗く影になった部分に分かれた。鼻筋の横が白く浮かび、いっそう美しく見えた。 「おはよう、ございます」 私たちはなぜか、同じ部屋で寝泊まりしていた。そうなった経緯は思い出せない。理由などないのだろう、生きることと同じように。Sはどう思っているのだろうか。近いようで遠いような、彼女との距離は測り知れないものがあった。私は恋をしているのだ、そう自分に言い聞かせた。私はよく把握できない曖昧な感情を全て恋と括っている節があった。
その日の午後、Sの友人らしき人物が家にやって来た。彼は陸上選手で、何か大きな大会に出場するらしかった。しかし、その大会の名前は誰も知らない。彼らは廊下でユニフォームに着替え始めた。そのユニフォームは異様に薄手で、寒々しいほどだった。男女の違いはあるがSも同じようなユニフォームを着ていて、私の視線は自然と彼女に向かった。 部屋のドアの隙間から、私は彼らの様子を窺っていた。Sが腕立て伏せを始め、彼女の動きに合わせて布が揺れる。その姿は美しくもあり、同時に現実感のない光景だった。どうしていきなり腕立て伏せを始めたのだろう。私は寝たふりをしながら、目を細めてその様子を見つめ続けた。
いつの間にか、意識が途切れていた。寝たふりをしているうちに、本当に寝てしまっていたらしい。私は近所にあるローソンにいた。瞬間移動でもしたみたいだった。そしてローソンとされているが、本当はファミリーマートだったはずだ。 「時給550円らしいよ」突然、話し声が聞こえてきた。周りには誰もいなかった。トイレへ繋がるスライド式のドアに、〈バイト募集中、時給550円〉と書かれた張り紙がしてあった。それは最低賃金を大きく下回る額だった。 「これじゃ、どこにも行けないわ」と、Sの声が背後から聞こえた。彼女は店内に立ち尽くし、その透き通る肌に深い失望の色を浮かべていた。 「この辺りなら、二、三千円でビジネスホテルに泊まれるよ」と、私は何とか声を絞り出した。しかし、彼女は首を振るだけだった。 「駅前じゃないと意味がないの」と、誰かが言った。振り返ると、そこには見知らぬ顔があった。その人物は私をじっと見つめていたが、次の瞬間には消えていた。向き直ると、Sの姿はどこにもなかった。
私は不安になって家に戻った。母が待っていた。「図書館から借りた本、返してないんじゃない?」と尋ねられ、確かに、返却期限を過ぎた本があったことを思い出した。しかし母は続けて「もう返さなくていいのよ」と微笑んだ。その言葉に何か引っかかりを感じながらも、私は深く考えるのを諦めた。Sのことは頭から抜け落ち、不安だけが残った。 夜になって、Sを探していることを私は思い出した。家中を探したが、彼女はどこにもいなかった。家族に尋ねても、最初からそんな人はいないと言われた。混乱しながら部屋に戻ると、彼女の荷物も消えていた。まるで彼女の存在そのものが最初からなかったかのようだった。
翌日、再びローソンに行くと、店は閉店していた。張り紙には〈時給550円では続けられません〉とだけ書かれていた。その文字は不気味なほどに鮮明で、私の心に重くのしかかった。外に出ると、景色が一変していた。見慣れたはずの街並みが歪み、建物は空に向かってねじれていた。道行く人々の顔はぼやけ、声はまるで水中から聞こえるかのようにぼやけていた。 再び家に戻ると、家自体が消えていた。その場所には古そうなアンティークの柱時計がぽつんと立っているだけだった。 途方に暮れていると、Sの声が聞こえた。「どこにも行けないのよ」その声は遠くから微かに響くようでもあり、ほんの近くから囁かれているようでもあって、全く距離が掴めない。 「S、どこにいるの?」 何度叫んでも返事はなかった。 突然、足元に穴が開き、私は暗闇へと落ちていった。意識は知らぬ間に途切れた。
目を覚ますと、見知らぬ部屋のベッドに横たわっていた。窓からは白い光が差し込み、部屋の中は何もない。立ち上がってドアを開けると、そこには無限に続く廊下があった。廊下の壁には無数のドアがあり、それぞれに数字が書かれていた。 一つのドアを開けると、そこはまた別の部屋だった。その部屋には、昔返し忘れた図書館の本が山積みになっていた。本を手に取ると、文字はすべて消えていて、白紙のページだけが綴られていた。 再び廊下に出ると、Sが立っていた。彼女は私に背を向けて歩き始めた。 「待って!」と声をかけても、彼女は振り返らない。必死に追いかけるが、距離は一向に縮まらない。やがて彼女の姿は霧の中に消えていった。 立ち尽くしていると、遠くから駅のアナウンスが聞こえてきた。「最終列車が発車いたします」。しかし、ここには駅などないはずだ。不思議に思いながら音のする方へ向かうと、突然目の前に駅のホームが現れた。ホームには誰もいない。列車は錆びついており、動く気配はなかった。 「乗るのですか?」背後から声がした。振り向くと、制服を着た駅員が立っていた。しかし、その顔には表情がなく、目も鼻も描かれていなかった。 「この列車はどこへ行くんですか?」と尋ねると、駅員はホームの案内板を指差した。そこに表示されている文字は知っているし読むこともできたが、何を意味しているか分からなかった。迷った末に、私は列車に乗り込んだ。中は真っ暗だった。座席に腰を下ろすと、窓の外には何も見えなかった。 列車が動き出すと、遠くからSの声が再び聞こえてきた。「どこにも行けないのよ」その言葉が頭の中で反響し、私は耳を塞いだ。 しばらくすると列車が止まり、ドアが開いた。外に出ると、そこは祖母の家の庭だった。昔暮らしていた、祖母の、本当の家だった。庭は荒れ果てており、草木は枯れていた。 「おかえり」と母の声がした。振り向くと、母が立っていたが、その姿は薄く透けていた。 理解できないまま、家の中に入ると、カチ、カチ、カチ、カチと柱時計の音だけが響いていた。二階に上がると、窓のない暗い廊下に出た。奥には高校時代に寝起きしていた、かつての私の部屋があった。私はドアをゆっくりと開けた。キィと、ドアと床が擦れる嫌な音がたった。部屋は薄暗く、生地の薄いカーテン越しに曇り空の青灰色の光をかすかに感じさせる以外はほとんどぼんやりと影となっていた。部屋の中に人影はなかった。ただ、一冊の本が机の上に置かれていた。 本を開くと、白紙のページに一行だけ文字が浮かび上がった。
〈バイト募集中、時給550円〉
突然、ブザー音が鳴り響く。ブー、ブー、ブー、ブー、となにかを警告している。 次の瞬間、全てが崩れ始めた。鳴り渡るブザーを背景に、壁が溶け、天井が薄れていった。私は何もできずに立ち尽くしていた。最後に床が崩れ、ふわっと体が宙に浮く感覚がした。
そして、目が覚めた。隣の部屋から、スマホのアラームの振動が床を通して伝わっていた。時計を見ると、朝の七時だった。床に敷いた厚めの折りたたみマットレスを畳み、顔を洗い、コンタクトを付けた。スキンケアと化粧をすませ、仕事用の私服へ着替える。プラスチックの詰まったゴミ袋を持って玄関のドアを開け、目を細めながら空を眺めた。雲の底が青灰色に輝いていた。ゴミステーションはほとんど空だった。 駅へ向かう道からは見慣れた街並みがあった。途中にあるファミリーマートへ寄って、朝食のサンドイッチと無調整の豆乳を買った。店内は明るく、商品がきれいに並べられていた。ふと気になって時給の掲示を見ると、自治体の設定した最低賃金を少し上回る額が書かれていた。
百合SS Advent Calendar 2024 at 12/20